獣の眼(下)

 いったい、どの位の月日が経ったであろうか。おまえは時間の観念をすっかりなくしてしまって
いたので、全く見当をつけることが出来なかったが……。
 ――その日は、朝から妙に暑苦しく、おまえは檻の奥の日陰になったところで、冷えびえする壁
に体を寄せ、舌をだらりと垂れたまま、いかにも暑そうな埃っぽい前の道を眺めていた。
 一つの影が道のずっと先、おまえの檻の右手に現れ、徐々に近づいてきていた。不意にぽっかり
と、その映像はおまえの眼の中に落ちこみ、おまえは一種の懸念をもってその影を見詰めた。それ 
は、恐らく何でもなかったかも知れない。それは普通の見物客に過ぎなかったのかも……しかしそ 
の時、かすかに遠い日の記憶が頭をもたげていた。不思議に心が惹きつけられる或るまばゆい記憶、
それに、あの男がどう関係したか。
 男がおまえの檻の前にさしかかった時、突然、おまえは呻き声をあげた。頭の中の激しい痛みに
よろけながら鉄柵に近づき、おまえを見守るその男をじっと見詰めた。奇妙な感激が、おまえを波
のようにゆすり、おまえはそれが誰であるかを思いだそうとしていた。
 眼の前に、黒い樹木が殺到し、おまえの上に打ち倒れた。
「なんちゅうこった!」
 頭の上で太い声が響いた。
「完全に失敗だ! こんなことになろうとは思わなかった」
「けれど園長」
 別の声がからんだ。
「奴さん、なかなかの努力家ですよ。それだけは認めてやらなくちゃ」
 聞き覚えのある声だった。頭を上げて見ると、がらんとしたうす暗い部屋の正面で、飼育人が椅
子に腰をかけている人物に向って、手を振っていた。たった一つの照明を背にした人物の椅子がぎ
いぎいきしんだ。
「馬鹿なことを云うな。わしは絶対に情状酌量はせんぞ! 肝心なことは、今この人間ハイエナを
どうするかということなんだ」
 飼育人がせきばらいした。
 「ハイエナ人間ですよ」
 「うるさい! こまかいことをつべこべ云うな。要するにだ。こやつはわしが思うにはだ。その反
社会的な性格により、実に全く、自己の責任においてハイエナになったのだ」
 「個性の展開ですな」
 「しかし、ここに困ったことが起きた。このハイエナは全くハイエナらしくないということなん
だ。しょっちゅう気絶したり、妙な風に叫んだり、食物に寄りつかなかったり、どうもいったいにに故障
が多すぎる。もしも動物学会から調査に来たりしてその間の事情が明るみに出るようなことになっ
ては、当園の名誉にも係ることだし、ひいてはわしの首も安泰というわけにはいかないというわけ
だ」
「なるほど」
「ふむ、おまえは妙な時に合槌をうつな。だがよし、わしはもう決意したのだ。こういつまでも放
っておけない。すぐに処置しよう」
「しめる……のですか?」
 飼育人はのどに手をあてて、後ろに飛びさがった。
「わしの云うことが分らんのか。逆だ、解放してやるんだ」
「でも、まさか」
「そうだ、もどしてやるんだ。ホモ・サピエンスの直接の子孫にな。だが、精神も元どおりとい
うわけにはいかん。記憶が残っていたら、当園の名誉を裏ぎるかも知れないからな。さあて、これ
でまあうまくいったら、これからはぼつぼつ私の方の仕事も手伝ってもらうことにしよう。これも、
今までの君の働きを見こんでのことだが」
「ちょっと待って下さい。手違いが……」
「おい、まだ何か云っているのか。こまかいのが君の欠点だが、もういい、もういい、よしと、これで万事快調さ!」
 と、急に眼の前で黒い網目がひろがった。みるみる網目は近ずくと、おまえのまわりにぼろっ布の
ようにまといついた。息苦しい感じが吐き気をともなっておまえを襲い、おまえは急にその場から
逃げ出したい思いで一杯になった。
 
 ……おまえは相手から眼をそらし、門の方へ向っで歩きだした。
 門から出ると、おまえは最初から定められた行動で、駅へ向った。私設電車に乗り、或る駅へ着
いてそこで乗り換え、こんどは国電に乗って、おまえにはなじみ深いと思われる一つの駅で降りた。
改札口を出、十分ほど歩き、家に着いた。
 六畳へ通ると、友子が現われ、おまえの服を脱がせて呉れた。次の間で、赤ん坊のぎゃあぎゃあ
泣く声が問えた。風呂がわいているというので、すぐに一風呂浴び、あがって飯を食った。飯を食
っていると、友子が何か言い、おまえがそれに答えた。おまえはひどく愉快な気分だった。新聞を
読み、テレビを見た。それからしばらく、友子と家計のことで議論した。友子が急に笑いながら、
おまえに飛びついてきた。……
 翌日は、目覚ましの音で眼を覚ました。赤ん坊は相変らず泣いている。おまえは、友子の仕度し
た朝飯を食い、小さなショルダーバッグを持って家を出た。会社に着くと、タイムレコーダーを押
し、しばらく同僚と雑談した。それから車へ乗りこむと街へ出ていった。相変らずだった。おまえ
の車は、恐ろしいスピードで街を飛ばし、客を目的地へ送り届けた。その日は客がついて、稼ぎ
はノルマをざっと二千円オーバーしていた。会社に帰ると十時を少しまわっでいた。係から伝票を
もらい家へ帰った。友子は赤ん坊を抱いたまま眠っていた。おまえはは煙草を一服すると、傍に敷
いてある布団にもぐりこんだ。
 翌日、会社へ行くと、労組の連中が来ていて、おまえに、やあといった。おまえも、やあと答え
たが、それ以上話さなかった。もっとも向うは話しかけようとしていたようだが、おまえはまっす
ぐ車庫の方へ歩いていった。車庫の横手の壁にビラが張られ、それには、「下車勤制度反対」と書
かれてある。それを見ると、さっき労組の連中の顔を見た時のように、何故か、後ろめたい思いと
同時に、頭の奥の方が痛みうずくような気がしたが、車に乗ってからは、そんなことはすぐに忘れ
てしまった。都心に出ると、おまえは車を徐行させながら左右へ眼をそそぎ、合図をしている人間
を見つけるや、それをひったくるように乗せ、目的地へ突っ走った。
 いつからか、或る意志がおまえを支配し、お前を勁かしていた。おまえは絶えず歩道の方へ眼を
配りながら、合図している人間を見つけようとした。そして、本能的にそれに向って近寄っていく
と、できるだけ手早く事を運んだ。
 おまえは時たま、駐車禁止の立礼のない路傍に車を止め、また待ち時間などを利用して、紙はさみに挟んだペラペラした表に、走行距離と料金を克明に書きいれた。そして、その料金の合計額
が或る一定の額に達するまでは決して一息いれるようなことはしなかった。時に、おまえは十二時
過ぎの一杯飲屋に立ち寄り、酒で活力を養うこともあった。が、それもごくまれで、よほど疲れた
日でなければやらなかった。
 また時に、おまえは公園などに車を乗り入れ、そのまま眠りこむこともあった。それは時間の節
約にもなったが、何よりも仕事の上での便益にほかならなかった。
 おまえは殆んど何も考えなかった。ただ、何かを考えるように強制される時はあったが、その時
は必ず、頭の奥の方に錐でもむような痛みを感じ、考えをさし止めてしまうのだった。会社の運転
手で、ノルマや下車勤制度のことをぶつぶつこぼしている者はいたし、実際におまえに向って話し
かけてくる組合員もあったが、おまえはなるべくそうした連中とは離れ、顔が合ってもあたりさわ
りのない話でごまかすことにしていた。おまえにとってはっきりしていることは唯一つ、働くが上
に働かねばならないという意識だった。おまえはまるで偏執狂のようにその意識にとらわれていた
が、それが辛いなどと感じたことは一度もなかった。それどころか、かえって不思議な昂揚状態に
心を支えられ、常に楽しくさえあったのだ。
 ある日の夜、おまえは郊外へ長路離の客を送りとどけてから、また都心にとって返し、折からの雨で右往左往する車の混雑の中で客を求め、ゆっくり流していた。
 フロントグラスにすべり落ちる雨滴は、ネオンの光を映して七色に染まり、見通しは悪かったが、
雨の日こそおまえの書き入れ時なので、左右への注意は怠らなかった。だが、その夜は不思議と客
がなかった。約一時間ほど、同じ盛り場を廻って見たが、かれこれ八時にもなるし、ノルマにはま
だ三分の一にも満たないしで、おまえはいくらかいらいらしていたが、その時ふと思い直して、
まだ行ったことのないS駅の附近へ行くことを思いついた。そこなら附近にちょっとした住宅街も
あるし、雨に降りこめられた通勤者が大勢いるような気がしたのだ。おまえは、そこからほど遠く
ないS駅まで一直線にぶっとばした。案のじょう、S駅の出入口は雨に降りこめられた通勤者でご
ったがえしていた。迎えの傘を待っている者、ただぼんやりと激しい降りに見とれている者、おま
えの車はあっちからもこっちからも引っ張り凧、行っては返し、返っては行き、またたく問にノル
マのあらかたを稼いでしまった。
 もう、その時は十一時にもなっていたろうか、おまえはもう人影のほとんどないそのS駅の横手
へ車を置き、もう一電車待って見るつもりで、その間附近の公衆トイレで小用をたした後、あらか
た小降りになった雨の中を駈け戻って来た。すると、車の後部扉が開いているのだ。
おやと思い、のぞきこんでみると、一人の会社員風の若い男が、かなりひどく酔っぱらっている様
子で、後部座席によりかかり首を垂れ、眼を閉じているのだった。
「ダンナ、どちらまでですか」
 おまえは、その若い男の肩へ手をかけてゆすぶった。
「ああ……」
 その男は大儀そうにだらしなくゆるんだ顔をあげて云った。
「ХХ町までやって呉れ」
 おまえは、おや、と思った。その若い男の顔がなんとなくおまえを惹きつけたのだ――どこかで
会った顔だ――と思った。
 おまえは運転台に乗り、わざとゆっくり車を動かしながら、注意深くバックミラーに映る後ろ
の顔を眺めた。……白い、むしろ青ざめた顔、しかしそれも酔いのせいかも知れない。陰うつにひ
そめた濃い眉、こけた頬の線、意外に赤い女のような唇、いったい誰だったろう、この男は。
「君」
 突然、男が声をかけてきた。
「え!なにか」
 おまえはどきりとして答えた。うしろの男が、おまえの視線に気づいたのだろうか。しかしそれ
は違っていた。続いての男の声は、もっと唐突な響きだった。
「……君はどうせ、僕にとっては関係のない人だ」
 弱々しい、自からを嘲けるような口調が、かすかな笑いにまぎれて続いた。
「こんなことを聞くのは変なことだが、君は、人の考えがその人から離れて、他の人間の中へ飛
びこむってことがあり得ると思うかい」
 (酔っているんだな)と、おまえは考え、笑いながら聞き返した。
「え! なんですって」
「いや、突然変な話で驚いたろうが、これは例え話じゃない。またよくいう人が変るっていうこと
とも違うんだ。僕のいうのはね。つまりここに二人の人間がいるとして、その二人の人間の内容が
互いにすっかり入れ替わってしまうことをいっているんだ」
「考えられませんね、そんな馬鹿なこと……」
 おまえは、話の意味する中味にぞっとしながら答えた。(悪酔いしてるんだな)
 しばらく沈黙が続いた。
「そうだろうか」
 男はやっと云った。突き放したような口調だった。鏡の中の男は、窓の外へぼんやりと視線を投
げていた。商店街の黒い軒並が後に飛び、車は音もなく濡れた舗道をすべっていた。男はふと、そ
のままの姿勢でもの柔らかな調子でいった。
「じゃあ、君は、人間の内容というものは、絶対に動かすことの出来ないものだと考えているの
だね。それが人間の肉体の殻に閉じこもって、そこから一歩も外へ出ないというんだね」
「勿論そうでしょうとも」
 男の柔らかい溜息が聞えた。鏡の中で、男はうしろに寄りかかり、眼を閉じていた。
「どうしたんてす、そんなうす気味悪い話をしてあんまり酒を飲みすぎたんじゃないですか」
 おまえは強いて笑いを浮べ、わざと声高に云った。
 鏡の中の男は、にっこり笑って眼をあけた。
「いや、そうかも知れない……だけど喋ったお陰で気が晴れたよ……この所、眠れないでね。
そんなことばかり考えて……でも、君がそういって呉れたお陰で、何か安心みたいなものができた
よ」
「ふっ、笑わせちゃあいけませんよ。そんな妄想にとりつかれたんじゃあ、生きていけませんぜ」
 おまえは笑いだしながら云った。車はいつか、ХХ町にさしかかっていた。
「ダンナ、ここら辺ですね」
「ああここだ」
 男は外を見て云った。
「そこの路へ曲ってくれ………よし、停めてくれ」
 雨は止んでいた。ぽつんと一つだけ、青い街燈がともっていて、あたりの高い軒並を浮び上らせ
ていた。
 お釣りはいいよ」
「へえ、こりゃすみませんな」
 おまえはうしろのドアを閉めると、そのまま何気なく、若い男が登っていく石段のある家を見や
った。
「おや、ここは」
 おまえは、思わず呟いた。
 ドアを開いて外へ出ると、しげしげとその家や、あたりの軒並に眼をこらした。道路、樹木、電
柱、なにか懐かしい匂いがするその全体。……すぐに、おまえはくっくっと声を忍ばせて笑いだし
た。
「今夜の俺は、どうもおかしい」
 ドアをパタンと閉じて走り出した。車を走らせながらも、おまえは頭を振った。
 会社へ着くと伝票をもらい、そのまま家へ帰った。十二時だった。友子は起きていた。煮物が火
鉢の上で湯気を立てていた。友子の笑顔と、赤ん坊の安らかな寝顔と、温かい食事が、おまえに今 
日のことを忘れさせ、やがて、おまえをやわらかく平和な眠りに包みこんだ。